作業と興奮

いつ何時も私の手にはスマートフォンがある

私はそこから世の中に生み出されているさまざまなものを眺めては恋焦がれている

美味しそうな料理、かっこいいプロダクト、素晴らしい音楽、なんかみてしまう動画たち

それら全てはすでにこの世の中に生み出されていて、程度の差こそあれよくできているなと思う、自分にもこんな風につくれたり、できたら良いなと思う

自分でお店をやるとしたら、そういうことを100万回は考えている
たとえば赤い革張りのソファを並べて、自分だけのダイナーを夢想して、よく考えもしないまま、満足してまたスマホに戻っていく

宅録のラッパーの楽曲を聴いては、自分でこんな音楽を作れたら楽しいだろうな、音楽に詩を乗せられたら素敵だなと思う
部屋の隅のギターやベース、MIDIキーボードを少しつまびくが、DTMアプリは開いたことがない

押入れにはいつか服にしようと買ってきた布が眠っている、まだ1mmも引かれていないパターンは年に数回私の脳に浮かんでは消える

作業をしなければならない、それなしには始まらない、生まれない
始めないことには始まらない

風呂に入るときだって、今日はもう元気がないかもしれないとためらったりする
何をするにもめんどくさい、このままでいたくなる
でも、いざ服を脱いでシャワー浴び始めて後悔したことはない
風呂に入ると風呂のための元気が湧き上がってくる

この体はまだ若く、必要なだけの元気を私にくれる
求めない限りはゆっくりとしたがる、求めると一緒に興奮してくれる
ダメな時は眠くなるからそれで良い

上手くやるとかそういうことは気にする必要がない、それは結果のための尺度であって、部屋の安楽椅子でごろごろスマホを眺めている人間のための指標ではないからである
立ち上がって手を動かし始めた時点で、何よりもマシで、そして多少は気分が良くなっている

作業興奮というのは本当なのか眉唾なのか、そういう話をみたが、それはどうでも良い、全てのことは作業に始まる、創作の、没頭の興奮は作業の中にある

大学時代から社会人生活に至るまで、一般にやらなければならないとされている様々に振り回されて、終ぞ手付かずのままの作業たち

様々な作業に忙殺される中で、私はきっと作業を自分のものではないと勘違いしていた
作業とは労働に紐づく、何か対価をもらわねばいけないような徒労、努力だと考えているように思う

しかし、私のための作業をしなければ、私は喜ぶことができない
何を食べても、みても、聴いても、私は半分しか満たされていない
消費は消費であって、全てではない
全ての創造に作業が先立ち、作業を恐れてはいけない

この手で作業をしなければならない
トイレに行きたければこの体でトイレに行かねばならない、トイレのYoutubeは役に立たない
暇なら家の外に出てみるのがよい、まずはズボンを履いて、街中を歩けるようなシャツを着るところから
積読していた本の最初の10ページを倒すのでもよい

創作のための作業でもよい、勉強やトレーニングのための作業でもよい、ただ体を動かすための作業でもよい

作業が始まると自分の興味、関心、こだわり、その他の感性が目を覚ます
考えずには、味わわずにはいられない

またスマートフォンの時間が始まる、私の興奮が発火する
それはそれで良いと思う、スマホの向こうではいろんなことが起きていて楽しいから

でも、少しでも今よりも素晴らしい気分の気配を見つけたなら、作業に飛び込もうと思う
爪が不快なら、立ち上がって爪切りを取りに向かう、少し億劫だけれど
何か書き残したければ、パソコンに向かう、こんなふうに
かなり面倒だったが、いい感じの時間だった


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